COLUMN 01 長襦袢の歴史

天文18年(1549年)フランシスコ・ザビエルが鹿児島に渡来し、以後キリスト教が九州を中心に盛んになりましたが、天正10年(1582年)キリシタン大名の命を受けて4名の少年使節団がローマに派遣され、8年の滞在の後、帰途、インドのゴアに立ち寄った際、宣教師から贈られたのが「ジバオ」(gibao)で、これが訛って変化しジュバン(襦袢)になったと言われています。これに袖を付けたものを南蛮襦袢と言い、御殿女中に愛用され、今日の長襦袢の始まりとなりました。

江戸時代、元禄の頃になると着物が豪華になるに従い長襦袢も贅沢になり、素材も絹のちりめんなどが用いられるようになり、天保の頃には絞りや刺繍、紅染めなど長襦袢にも着物と変わらない染色技法が用いられるようになりました。

美しく華やかな色調で染められた長襦袢

明治時代になり、大正・昭和の初めまでは長襦袢は内側の隠れたおしゃれとして最も華やかになり、素材も錦紗織など新しい素材の生地が使われ、紅絹の裏地に小紋や刷りの友禅、刺繍や絞り加工など華やかな色調や趣味に合わせた個性的な長襦袢が着られましたが、戦火が激しくなるとともに衰退し、昭和15年の七七禁令で豪華な長襦袢は着物ともに作られなくなりました。

戦中から戦争直後は、長襦袢も戦前のものを縫い合せて利用したり、モスの身頃に袖の見える所だけ絹を使ったりした物不足の時代が続きました。

戦後、昭和24年の統制解除とともに再び長襦袢が作られ始めましたが、まだまだ実用的にはモスリンやウールが主流でしたが、昭和20年代後半になり軽目の絹綸子(北リン)が北陸地方で大量に生産されるようになり、北リンに無地や単彩のぼかし染め、簡単な友禅染め加工をした長襦袢が大流行しました。昭和40年頃から日本の高度成長期時代とともに素材も戦前の錦紗織をさらに改良した精華パレスや意匠綸子などが生産され、染色も多くの色数を使用したぼかしや絞り染め、手の込んだ友禅染めなどが用いられる用になり、最近では着物と変わらないような素材と染色を施した長襦袢も出来ています。

しかしながら、今日のように着物の色柄が強いか、表だつ着物が先と言うような風潮にあって、長襦袢はぞんざいに扱われてき続け、実用一点張りの味気ない長襦袢が今でも主流ですが、長襦袢が戦前のように美しく華やかな色調で染められ、着物姿のもう一つの主役として、身に付けられる方のおしゃれ心を高めるような「長襦袢のおしゃれ」を楽しんでいただければ幸いです。

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